スラックラインの起源を知るうえでヨセミテは切り離せません。
ヨセミテは自己確保以外の道具は使わないフリークライミングという概念が生まれた地域ですが、スラックラインもそこで生まれたとされています。
海外の話ですから、日本人で詳細を理解している人は少ないでしょう。
当時の記述は何箇所かに散らばって残っていますので、それらを繋ぎ合わせて実際どうだったのか書いていきます。
長くなるので何回かに分けてます。
※slackliningとslacklineは同じ意味として考えます。
1960年代はチェーン歩き
1960年代という数字は、閉鎖されたslackline.comやHow to slacklineという本に出てきます。
60年代はアメリカのカリフォルニア州ヨセミテでパット・アメント(Pat Ament 1946生まれ)という有名クライマーやその仲間が鉄製チェーンを歩いたり揺らしたりしてトレーニングを兼ねて楽しんでいました。パットはスラックチェーンが特に上手でワインボトルでジャグリングしながら歩くほどの腕前でした。
チェーンに乗るようになったきっかけは、Baldwinという80歳を超えた高齢綱渡り師がエルドラド渓谷に鉄製ケーブルを渡して歩いた(動画)ことに刺激を受けたと事とされています。
当時はヨセミテのキャンプ4というキャンプ場の駐車場に張られたチェーンが使われたり、持参したチェーンに乗っていました。
60~70年代はベトナム戦争の影響でヒッピー・ムーブメントが起こった時代ですが、キャンプ4はヒッピーが作ったともいわれるほど彼らが集まっていました(ヨセミテにほど近いサンフランシスコがヒッピーの中心地)。正しくは50年代にマーク・パウエルなどの意欲的なクライマー達がここに集まったことでコミュニティができた。彼らが集う前は不人気なキャンプ場だったそうだ。
彼らは冬は働き、夏にヨセミテに来てクライミングをして夜はキャンプ4でたき火を囲む。そして次の年も。元々あったクライミング文化とヒッピー文化が合わさり、ヨセミテでは独自のクライミング共同体ができあがっていました。
※長期滞在者が多いので二週間までというルールが作られたが、上か下のキャンプ場に一度避難してまた戻ってきていた。
※現在でもスラックラインが張れるキャンプ場だが、チェーンとケーブルは禁止されている。
スラックチェーンは60年代から70年代までキャンプ4の名物レストデイアクティビティだったそうです。
以下は70年代からヨセミテを訪れている写真家のDean Fidelmanがアドベンチャースポーツジャーナルで語った言葉。
“If you were living a climbing lifestyle, you slack-chained. If you didn’t, it meant you weren’t part of our culture.”
「もしあなたがクライミングライフスタイルを生きていこうとするなら、あなたはスラック・チェーンであらねばらなない。もしそうでなければ、ヨセミテのクライミング文化の一部では無いことを意味している。」
あれ?意味わかんない。訳が間違ってると思う。緩いけど結束が強いという意味でスラックチェーン?
まぁとにかく、スラックチェーンは当時のヨセミテのクライミングを語るには欠かせない文化の一部だったに違いありません。
チェーンだけでなく、鉄製ワイヤー・ロープも使われ、それぞれスラックチェーン・スラックワイヤー・スラックロープと呼ばれていました。
スラックラインはまだ本格的には登場せず。
↑1979年。
キャンプ4のスラックチェーンを歩くヘインツ・ザック(スラックライナー・ハイライナー、写真家)。
slackline am Limitより
アダムとエリントン
時は流れて1979年、アダム・グロボスキー(Adam Grosowsky)はイリノイ州のデザイン科で学ぶ大学生であり若いクライマーでした。
彼はサーカス団が鉄製ケーブルの上で片手逆立ちをしている写真をみて、自分にもやれるか?と挑戦したくなります。ケーブルやチェーン、ロープ、ラインなど様々なもの上で逆立ちその他の動きに挑戦していましたが、アダムは仲間の中でもセンスが飛びぬけており、目標だったハンドスタンドで左右にスイングできるまで上達しました。
その後アダムはジェフ・エリントン(Jeff Ellington)という同士を得ます。エリントンはウェビングをプリー効果を効かせながらもセルフロッキングできる特別なリギング方法を思い付きました。この方法は今でいうプリミティブという方法であり、別名エリントンシステムともいわれ今現在でも多くのファンを持つ張り方です。
ますますハマった彼らは大学構内の森に練習場を作り、ハンドスタンドやジャンプ、スイングやジャグリングなどなどを習得していきます。
円形サーカス場を設けて8mの高さでパフォーマンスできるほどでした。また、アダムは画家でもありサーカスを題材とした絵をいくつも描きました。
ヨセミテのキャンプ4に現れた二人の達人
1983年に彼らは大きな挑戦に動き始めます。
それはヨセミテのロストアロースパイヤーという岩峰にワイヤーを張って渡るという計画。
ワイヤーを張れるだけの多くの機材を車に積み込んでヨセミテのキャンプ4に来た彼らは、スラックワイヤーやスラックラインの技を披露するとともに、計画の準備をはじめます。
アダムのスラックラインの技術は特に高く、偶然居合わせたスコット・バルカム(後にハイラインのパイオニア)は彼らの動きに釘づけになりました。
ラインをスイング(今で言うサーフィン)しながら前に歩いたり後ろに歩いたり、さらにはスイングとバウンシングを同時にしながらの円形にスイング(サーフィンサークルズ)。もちろん、ハンドスタンドサーフィンなどなど。
技数はとても多く、当時考えられるほぼすべての技がアダムとエリントンは習得してたといっても過言ではないほどでした。
彼らは19mmのナイロンフラットウェイビングをエリントンシステムで張っていました。
チェーンとは違う伸び縮する特性を生かした技の数々はこれまでと比べられないほど洗練されており、美しいものでした。平行に張ったラインに乗りながら二人で投げ合ってジャグリングしたりと、まさに大道芸のようにその場にいた人を楽しませていました。
彼らのパフォーマンス見た後、居合わせた人がラインに乗ろうとするがとてもじゃないが乗れない。あまりにも不安定でスポッター(着地を補助する人)が必要なほど。何人かは立つことは可能だったが、とっても危なっかしい。
何とムズカシイことか。そして危険度も高く感じられた。素人がいきなりこんなダイナミックにの伸び縮するウェビングに乗れる訳がない。
スコットはもちろんスラックチェーンもケーブルも、兄が買っていた麻のロープも乗ったことあった。しかしそれらとは違う。あんな伸び縮みする上で彼らはジャンプだってする。どう考えても理解不能で馬鹿げてるとさえ思うほどだったが、とにかく彼らの動きは美しくキャンプ場にいるリスと共にダンスしているようだった。
そしてそれは、キャンプ4のレストアクティビティにスラックチェーン、スラックワイヤー、スラックロープに新しくスラックラインが加わった日を意味していました。
アダムとエリントンはキャンプ4に長期滞在していたので、スコットは毎日かれらの妙技を見に行きライン乗りました。何度見ても見惚れたのが、円形にスイングさせる技。しかも回すのが早い。1秒で一回転。ラインはゴムなんじゃないかと思えるほどクィックに伸び縮している。なんてスラックラインはスゲーんだ。
slackline surfing circles – YouTubeこれは別の人ですよ。
アダムとジェフのロストアロースパイヤー
彼らはキャンプ4に技を披露しに来たんではありません。
ロストアロースパイヤーを渡りに来たんです。
ヨセミテの森の中に仮想ロストアロースパイヤーのケーブルを張って練習も行っていました。
渡るのは鋼鉄製のワイヤー。
なぜ彼らが得意としたナイロン19mmフラットウェビングじゃないのか?
すぐ考えつく理由は強度。命を預けるには強度が低すぎる。
現代とは素材の強度がだいぶ違うはずです。彼らが使っていたのは今のラインより細い19mmだし。
それから長さ。
わずか17mの区間ですが、当時の1インチナイロンチューブラーはグランドレベルで14mくらいが限度とされるほど伸びていました。このためナイロン製のラインを使うには長すぎます。強度の問題で強く張るのも危険。
それからフィリップ・プティなどの綱渡り師の影響。彼がツインタワーを渡ってから数年後の話ですから、かならず念頭にあるはず。ワイヤーなら綱渡り師と同じじゃないか?って話になるかもしれませんが、かれらはバランスポールは普段から一切使っておらず、そのためこれまでの高所綱渡りの範疇とは違うと考えていました。余計な道具を使わないというフリークライミングの概念を当てはめたのかもしれません。
頂上に立つには880m登る必要はなく、台地から100mほどロープで下降し、フリークライミングで70m~80mほどの高さを登る必要がある。台地と岩峰は近いため、ロープ(チロリアンブリッジ)を岩峰と木に張って移動するスポットしては定番だった。
ヨセミテの象徴的な地形。インディアンの矢が突き刺さってできたというのが名前の由来。
アダムとエリントンらが渡るという当日。
スコットは下から見ていたがそれらしいものは一切見えなかった。
山から下りてきた少女が言うにはどうやら成功したらしい。
次の日降りてきた彼らを祝福すると、いいや失敗したとのとだった。
岩峰の頂上に立っていた二人を見た彼らの友だちはこの挑戦が成功したと思っていたが、実際には岩峰の先端にチロリアンブリッジ(空中トラバース)で渡っただけだった。つまり勘違いなんだけど、本当に2人は歩いたんだ!なんて噂が流れたりもした。
とにかく、2人の達人の挑戦は失敗に終わった。
岩峰の方のボルトが破損(クライミング用を流用した?)したから歩行を中止したというのが、今回の顛末だった。
歩行に成功には至らなかったが、彼らがキャンプ4に滞在して披露したスラックラインはウェビングを効率よく張る方法であるエリントンシステムと共にヨセミテに浸透していく。
キャンプ4の共同体にスラックラインが取り込まれた。
1983年のことである。
第1話ここまで。
まとめ
いかかだったでしょうか?
スラックラインのはじまりが少し見えてきました?
自分は調べていて意外な事が沢山ありました。
でも、スタート時から今のスラックラインとそんなに変わりないのも面白い。
スコットが初めてラインの乗った時のガクガク具合が想像できます。いつの時代でも誰だって最初は同じく苦戦する。
スラックラインはスラックライン。
ヒッピーに関しては自分も含めてあんまり知らない人も多いはず。
ウィキペディアには、「伝統・制度などの既成の価値観に縛られた人間生活を否定することを信条とし、また、文明以前の自然で野生生活への回帰を提唱する人々の総称。」と書かれています。
現代のスラックライフを満喫している人のともつながっているんでしょう。
つーことでヨセミテの妄想が膨らんでいきます。
以下にポイントをまとめます。
- CAMP4はヒッピーが集まっていたキャンプ場
- ヒッピー文化発祥地のサンフランシスコは近い
- 60年代と70年代はスラックチェーン
- サーカスとアートに影響を受けていたアダム、張り方を発明したエリントン
- 達人的なジャグリングとサーカスの要素を取り入れたトリックの数々が出発点。つまり、始まりはフリースタイル要素たっぷりだった。
- 彼らが歩いていたのはナイロンの19mmフラット。当時のラインは貧弱でとっても伸びた。ラインの距離は短かった。
- ワイヤーによる二人のロストアロースパイヤーの挑戦はボルト破損で失敗。
ヨセミテのキャンプ4独自のクライミング文化にはスラックチェーンというジャンルがシッカリとあった。アダムとエリントンが来てその文化にスラックラインが混じる。大きな役割を果たしたのはラインとカラビナだけで張れるエリントンシステムの存在。
Yosemite National Park: Slacklining
キャンプ4というコミュニティがなければスラックラインがその後発展したかどうかは疑わしい。ただパフォーマーが来てスゴ技を披露していったで終わってしまっていたはず。
コミュニティがあったおかげでスラックラインが誕生して、時間をかけて徐々に独立したスポーツへと発展していった。
実際に2人の技に感動してたスコット・バルカムとその仲間はすぐに影響を受け、スラックラインの研究を重ねてロストアロースパイヤーに挑んでいる。
ということで第二話のスコットバルカム編に続きます。いつになることやら。
気になる人はwalk the lineという本を読んでみてください。今回その本を参考にした部分が大きいです。
アダムとエリントンが来た時に居合わせたスコット・バルカムが書いた本です。
ちなみに、自分が持っている本はスコット・バルカムのサイン入り。Ben Enjoyと書かれてはいますけど。
第二話あおり
なんと最初のハイラインは2インチ(5㎝)ラインだった
考えた末の最強のラインは3本使ったトリプルライン
スコットバルカムはアダムとエリントンが歩けなかったロストアロースパイヤーが歩けるのか?
美は恐れを知らない。ベトナム戦争のポエムが添えられたハイライン。
研究熱心なスコットはラチェットも沢山持っていた。
第二話はこちら
参考
閉鎖されたslackline.com クリスのスラックライン研究
climbing dictionary
画像はヘインツザックの本、ウィキペディア、フリッカー