木が痛むからダメって注意してもあの高校生二人組、いまだにあの何とかかんとかって言う綱渡りをしに来るんだ。
事務所が休みの日曜や夜にさ。
この前は警察呼んだけど、パトカー来る前にちょうど帰っちゃつて逃げられた。
ゴキブリと同じ。
だいたい、あんなことして何が楽しいんだろうねぇ。
スラックラインの神様に期待するたったひとつのこと。
スラックラインができる公園を増やしてくれませんか。
多くの人の最も切実な問題は堂々と張れる公園が少ないということ。
というかほとんど無い?
ほんの端っこでもいい。人が少ない時間限定でもいい。
場所は個人の活動で育て守っていく必要も確かにある。
だがしかし、それは育てられなかった、守れなかったと紙一重だ。
公園が禁止になったのなら、地元のスラックライナーのマナーが悪かったのでは?何か問題を起こしたのではないの?啓蒙が足りなかったのではないのかい?正式に許可を取ろうと動いたことが逆効果になって禁止されたんじゃないの?どうせ選挙も行ったこと無いような若者でしょ。俺が動けば地元市会議員と仲良くてるからそんな下手な事にはならなかハズなのにさ。等々。
公園のおじさんや子供と仲良い関係を作ってるから、それを壊さないために私の知らないスラックライナーは勝手にあの公園に張らないでほしい。
かつてそんなこと言っている人もいました。
公園の許可取らずに張っているのに、私の許可は取れと。
いやいや。
些細なことで簡単に覆るのが公園事情。
おじさんと仲良くしてても大抵の場合は何の力になってくれません。
それに、私の許可に何の意味があるのか。歓迎してあげればいいやん。
公園の管理人さんに教えてもらったことですが、正式な条例などがなければ迷惑行為でないかぎり何かを楽しんでいる市民を追い出すことはできないとのことでした。
管理人にも警察にも役人にも総理大臣にもそんな権限は無いそう。
ところが、スラックラインを楽しむという行為を禁止する権限は誰一人持って無いとはいえ、簡単にキックアウトできる。
少し偉い人が、「あの綱渡りみたいは奴は木を痛めるし、危ないし、何かあったら責任とれないよ」と言えば終わり。
キックアウト、つまり原則スラックライン禁止となれば、スラックライナーは迷惑な存在でしかなくゴキブリも同然なのだ。
(このエントリーはキックアウトという言葉使いたかっただけで書いています。ゴキブリ高校生の話はフィクションです。)
公園は公園であり、人は人。
様々な事情があるにせよ、優先すべきは何なのか。
人と答える人は、自分の事しか考えないゴキブリ、ゴキブリ呼ばわりされたくないなら公園と答えればいい。
ほんとうにそれでいいのか?
樹木保全については客観的な根拠をもとに安全性を証明した上でのルールの周知徹底を図る。
場所占有による迷惑行為という声についても広域的かつ地道な啓蒙活動を行っていく。
仮にそれらの実績が積み重なればおおやけに公園スポーツとして認めらえる日が来るのかもしれない。
やっと気軽に「公園で張りましょう!」と誘える。
だけれども。
スラックラインは迷惑で危ないから自宅の庭か専用施設でやってください。
それができないなら辞めてください。
という暴力的な正論。いや確かにその通り!?なんです。
それでまた丸裸。
なんと繊細なことだろう。
迷惑・禁止という言葉は想像以上に暴力的な言葉だ。
人間は何かを得た喜びよりも、失った時の悲しみの方が大きい。
スラックラインを自分で買って、はじめて歩けたときの喜び。
原則禁止といわれ何かを失って否定された悲しみ。
それから場所確保済みの上から目線スラックライナーから浴びせられる言葉。スラックラインをやるなら許可を取ってください。取るのは当然のマナーです。許可なしでやればスラックラインのイメージが悪くなり、他のスラックライナーの迷惑になります。
団体や代理店も同じ。許可を取ってくださいと。
SNSで「スラックライン楽しい!ハマりそう!」という人もいるが、実のところは「だけど、もうやらないだろうな」という言葉が後に続く。「だけど」とは何だろう。
その正体は、後ろめたさや、居心地の悪さかもしれないし、それとも単なるやる気の問題かもしれない。自分で張ってスラックラインやってみよう!という気になる、何か一押し。そこが足りない気がする。
向き合うべきはこれからスラックラインを始めよう!、ハマりそう!って人たちなのに。
ハードルが高い。とてつもなく。真面目に考えれば考えるほど、まるで万里の長城のようなハードルなのだ。
そりゃぁ、絶望してスラックラインの神様に頼むしかない。
って気になるよ。
いや、その前にスラックラインやらなくなるか。。。と思いかけたその時、良いニュースを聞いた。
公園管理人にゴキブリ扱いされていたあの高校生二人に進展があったのだ。市のスポーツ振興課の人にスラックラインのことを相談すると、とてもいいスポーツだ!と公園に話を通してくれて堂々とスラックラインを張れるようになったらしい。
「この公園、スラックラインの聖地にしようぜ」と二人は意気込んでいる。
どこからともなく、スラックラインの神様の声が聞こえた。
「張れなくなった場所も、またいつか必ず張れるようになる日がきます。」
「スラックラインを張れる場所は無限にあるのです。」
「安全かつ公正な環境さえあれば誰もが自発的な関心や適性等に応じて日常的にスポーツに親しむことができます。」
「なぜなら、スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことは全ての人々の権利なのです。」
「これらを忘れないで下さい。」
んで最後に、スラックラインの神様の言葉は存在しませんが、スポーツの神様のような言葉は存在します。
スラックラインがスポーツであるなら、スポーツの神様の言葉が当てはまるはず。
スポーツ基本法前文より
スポーツは、心身の健全な発達、健康及び体力の保持増進、精神的な充足感の獲得、自律心その他の精神の涵(かん)養等のために個人又は集団で行われる運動競技その他の身体活動であり、今日、国民が生涯にわたり心身ともに健康で文化的な生活を営む上で不可欠のものとなっている。スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことは、全ての人々の権利であり、全ての国民がその自発性の下に、各々の関心、適性等に応じて、安全かつ公正な環境の下で日常的にスポーツに親しみ、スポーツを楽しみ、又はスポーツを支える活動に参画することのできる機会が確保されなければならない。